わたしのカメラ三昧 第4回 RICOHFLEX Model III
RICOHFLEX Model III
たまに訪れる近郊のリサイクルショップを覗くと,店舗の奥の方に二眼レフカメラが1台鎮座していた。カメラの前面には札が貼られていた。読むと,「シャッター切れません」とある。<そうかな?>と思いながら手に取り,シャッターをチャージした後シャッターボタンを押すと,カチャと音がした。シャッターは大丈夫なようだ。では,なぜ「シャッター切れません」の札があるのか?察するに店主はシャッターチャージということを知らないのだろう。
今のカメラ,と言ってもすでに「今」ではないかも知れないが,要するに1950年代頃(?)以降のカメラはフィルムを巻き上げるときシャッターチャージも同時に済ませる機構となっている。
写真1.正面から見る
では,シャッターチャージとは何か?ご存知の人もいようが,昔のカメラのシャッターはばねと歯車で構成されていた。つまり,動力はばねに蓄えられる機械的エネルギーである。当然シャッターを動かすためにはばねを引っ張らなければならない。これがシャッターチャージであると認識している。シャッターセットとも呼ばれるそうである。
初期のころはシャッターチャージの操作とフィルム巻上げの操作とは独立していた。その後,フィルムを巻上げるとシャッターも同時にチャージされるようになった。だから,この頃以後カメラの操作を始めた人はシャッターチャージという認識がないに違いない。もちろん,わたしもそうであった。だから,件(くだん)の店主が知らないのも無理はない。
さて,まずはこのカメラの仕様的なものを確認しておこう。
(1)製造元 理研光学(現,リコー)
(2)型式 二眼レフカメラ
(3)適合フィルム ブローニー(120)フィルム
(4)画面サイズ 55×55mm
(5)撮影レンズ リコーアナスチグマット80mm F3.5
(6)ファインダーレンズ 同上
(7)シャッター リケンシャッター B,1/25・1/50・1/100秒
(8)大きさ(実測) 幅72×高さ126×奥行き100mm(突起物を含まず)
(9)質量(実測) 690g
(10)発売年月 1950年9月
(11)価格 7,300円(うち,ケース1,500円)
1950年といえば亀吉の生まれた年である。つまり自分と同じ年を経たカメラと出会った訳だ。このことだけでも何となく愛着を覚えるではないか。ところで,このカメラの底のネジの周囲に”OCCUPIED JAPAN”という英文が刻印されている。OCCUPIED JAPANとは「占領された日本」ということである。第二次世界大戦に敗れた日本は米軍を中心とする連合国に占領された。当時JAPANという表記は許されず,OCCUPIED JAPANとするよう強制されたそうである。まあ,歴史的な評価はともかく,貴重な品であることは間違いない。下の写真をご覧頂きたい。MADE IN OCCUPIED JAPANという文字が読めるだろうか?
ということで,このカメラは戦後間もない頃に製造されたものであることが分かる。以前からこのようなカメラの存在は知っていたが,実物を手にし,さらに手に入れたのは初めてである。さて,二眼レフというカメラの存在意義をご存じない方もいるであろう。一眼レフを知っていても二眼レフを知っている人は少ないのではなかろうか?
カメラの発展の歴史を振り返るとその必然性がわかる。
まず,カメラは出現の瞬間から
① いつでもだれでも(確実に)撮影でき
② 小さく軽い
ことが条件として課せられたのである。
では,誰でも撮れるとはどういうことだろうか?昨今ではauto-focus, auto-exposureが当たり前だがそれは1960年代以降の話である。露出はともかく,まずピント合わせをどうするかという問題がある。昔は目測しか方法がなかった。それを確実にする方法としてここで取り上げた二眼レフとレンジファインダーという二つの方法が考えられた。(一眼レフはその後である。)
ここでは,当然ながら,二眼レフを取り上げよう。
二眼レフでは,光をフィルムに導くレンズ(撮影レンズ)と機械的に連結された同じ仕様のレンズ(ファインダーレンズ)をもう一つ設け,これを撮影者が目で見てピントを合わせるのである。同じレンズでピントが合っているだから,撮影レンズもピントが合っているはずだというのがこの方式の論理である。
写真1で,下のレンズは撮影用であり,上のレンズはファインダー用である。両レンズの周囲に歯車があり,それらがかみ合っている(らしい)ことがわかるであろう。
しかし,このカメラにはつぎの問題があった。
① ファインダーで見える映像は左右が逆である。
② パララックス(視差)が発生する。
このうち①は慣れればそれほどの障害ではないが,②は基本的に重要な問題である。
しかし,長所もある。それはファイダーが上を向いているため,被写体が人物の場合,撮影者の目は下を向くためモデルはあまり緊張感を感じないということである。このゆえに未だにこのカメラを愛用している人がいる。(すでに過去の話になったかも知れない。)
さて,店頭でも気になっていたのだが,内部に何か不足が感じられた。帰宅してよくよく眺めると,フィルムを導くローラが1本欠けているのである。写真3をご覧いただきたい。レンズの上下に白く光る横棒が見えるであろう。これは直径3 mmほどのローラであり,この上をフィルムが走るのである。しかし,買ってきたときは上のローラがなかった。
旋盤があれば自作できようが,残念ながら持っていない。そこで,DIY店でアルミのパイプと真鍮の丸棒を買ってきた。アルミは外径3 mm内径1 mm,真鍮は外径1 mmである。それぞれを適切な長さに切断してアルミのパイプに真鍮の棒を突き通してローラを作った。それをはめ込んだのが写真3の状態である。
以上で手入れは終った。レンズの汚れを拭いたりはしたが,シャッター,絞り,シャッター速度の調節などには支障がないようだ。もちろん,亀吉の勘ピュータによる判断であるからあまり頼りにはならない。
では,さっそく試写してみよう。(実はこの間1年ほどの時が流れている。)
まず,120フィルムを装填する。今回は感度160のものを使用した。100とか200ならわかるが,なぜ160なのか?ちょっと考えた結果,DINとの関連ではないかと思い至った。そこで,参考書を引っ張り出してみると,ASA160はDIN23であることがわかった。(亀吉は古い人間なのでフィルムの感度はASAと呼ばないとピンと来ない。今ではISOだそうだ。もっとも,ISOはASAとDINを併記するようで,今回の場合は160/23°と表現するのだそうだ。なお,ASAは米国の,DINはドイツの規格である。)
久しぶりの晴天に恵まれたので,大分県の中津市から山国川をさかのぼってみた。その昔山国川沿いには耶馬溪鉄道と呼ばれる鉄道があったと聞いている。今回はその跡を訪ねたいという思いがあった。
まず,中津市の中心部から少しはずれたところに汽車ポッポ食堂というのがあって,その前に機関車と客車が陳列されていた。写真4がその機関車である。そのとき,わたしはこれを耶馬溪鉄道の機関車と信じたのだが,後で調べるとどうもそうではないらしい。
実はこの写真を撮った後でセルフタイマー(勿論,外付け)を使って記念写真を撮った。しかし,その後カメラを扱っているときに突然裏蓋が開いてしまい,フィルムの一部が感光してしまった。それで記念写真は駄目になってしまった。古いカメラはご用心,ご用心。
下の写真は耶馬溪鉄道の鉄橋である。廃線から40年近く経っているがまだまだしっかりしているように見える。勿論,補修は欠かさないのであろう。
耶馬溪鉄道の跡地はサイクリング道路になっている。一度走ってみたいと思いつつもう十数年の歳月が流れてしまった。橋あり,トンネルありで楽しいと聞いている。
ところで,写真はいずれもあまりいい写りではない。何となく,油膜がかかった感じがする。写真5は遠くがぼけている。これは亀吉の責任かも知れない。ピント合わせを間違ったのだろう。(遠くをぼかすつもりだったかも知れないが,このような風景では不適切。)
写真の上部に黒い帯があるが,これはスキャナでデータ化したときにできたものであって,フィルムとカメラの所為ではなかろう。トリミングすればよいのであるが,この記事の性格にそぐわないのでそのままとした。
さて,耶馬溪鉄道跡から別れて山国川源流方向に進むと広場に案山子のような人形がたくさんいた。村おこしのイベントらしい。被写体としては面白いのであるが,どうもいい構図が得られない。その中で撮った一枚が写真6である。お手玉をしているのであろうか?
最後に,写真7は福岡県前原市の海岸で撮ったもの。まあまあの写りだと思う。
しかし,写真6も7も上部左右が黒ずんでいる。周辺光量不足という言葉を聞いたことがあるが,このことだろうか?撮影技術でカバーできるのだろうか?
作:木下亀吉
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